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千葉地方裁判所一宮支部 昭和31年(ワ)48号 判決

主文

被告は原告相原礼子に対し金三萬円、原告相原清治に対し金一萬円およびそれぞれこれに対する昭和三十一年十月五日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

原告等のその余の請求はいずれも棄却する。

訴訟費用はこれを三分し、その二を被告、その余を原告等の各負担とする。

本判決は原告等勝訴の部分にかぎり仮に執行することができる。

事実

(省略)

理由

一  原告相原礼子が昭和十五年四月十二日生で原告相原清治の長女であり、母すみは昭和二十四年二月六日死亡し、原告清治がその単独親権者であること、原告等方が被告の隣家であり、被告が昭和二十九年頃原告礼子に対し将来養子にすると申し向けたこと、原告清治が農業を主とし、農閑期には東京方面に出かせぎしているものであること、原告礼子が昭和三十一年三月居町中学校を卒業したこと、被告が多年教職にあつて後退職した恩給受給者であること、原告礼子が昭和三十一年三月被告を相手方として千葉家庭裁判所一宮支部に慰藉料請求の調停を申立て、右調停が不調に終つたことはいずれも当事者間に争いがない。

二  原告等は被告が原告礼子を姦淫したと主張するのに対し被告はこれを否認するからまずこの点について考察するに、当事者間に成立に争いのない甲第一号証、第四号証、第六号証、乙第二号証に原告相原礼子(第一回、第二回)、相原清治および被告各本人尋問の結果(ただし原告礼子(第一回、第二回)および被告本人の各供述については後記措信しない部分を除く。)ならびに本件口頭弁論の全趣旨を総合すると、

(一)  原告清治には亡妻すみとの間に長女である原告礼子(昭和十五年四月十二日生)のほか、長男正雄(昭和十二年九月二十五日生)、二女幸子(昭和十七年一月一日生)、二男貢(昭和十八年五月二十二日生)があり、更に清治の父清男、母とみがあつていずれも原告清治方に同居し、清治が世帯主として農業を営んでいるが、清治は農閑期には出稼ぎして不在勝であり、一家は母とみがとりしきつて来たこと、

(二)  被告(明治三十一年四月十三日生)は師範学校二部卒業後香取郡中和小学校訓導を奉職して以来千葉県内各地の小学校を歴任し、大正十三年四月九日杉山一枝と婚姻して長男貞雄を設けたが、昭和二年四月十一日協議離婚し、長男は本籍地の実父進一方に預け単身で教員生活を続けた後昭和五年頃手賀小学校教頭を最後として教職を去り、東京に赴いて筆耕などして生活し、昭和十六年頃本籍地である肩書住所に帰つて農業に従事して来たものであり、長男貞夫が昭和二十一年頃死亡し、父進一は屋敷内の別棟に居住させて自炊生活をしていたこと、

(三)  被告は昭和二十九年七月頃から、当時居町南総中学二年生であつた原告礼子を可愛がり自宅へつれ帰つて菓子や小遣銭を与える等のことがあつたが、同年七月末頃の某日正午頃礼子が被告宅に赴き小遣銭をねだつたのに対し、被告は三百円を渡すとともに礼子を奥の間に誘い入れ、雨戸を閉め布団を敷いて肉体関係を迫り、礼子も強いてこれを拒まず、遂に関係を結ぶに至つたこと、

(四)  原告礼子は被告との関係を家族の者に告げず、その後も被告方に出入して小遣銭や衣類等を貰い、同年十月頃も前同様肉体関係を結んだが、その頃被告から養子としたい旨の意向を告げられてますます被告を信頼し、始終被告方に出入するようになつたこと、

(五)  昭和三十年四月原告礼子(当時中学校三年生)はカマスやムシロを売りに行つてその売上金を勝手に使つたことで祖母とみから劇しく叱られ「お前のようなものは勘当だから何処へでも行け。」といわれたので、被告方へ行き「学校へ通いながら仕事を手伝うから、できれば一カ月位ここから学校へ通わせて貰いたい。死んでも家に帰らない。」というので、被告は礼子を自宅において学校に通わせたが、三、四日後祖母とみが迎えにきて連れ戻るまでの間に前同様肉体関係を結んだこと、

(六)  原告清治は被告が礼子を養子にしたい意向を有していることを知り、昭和三十年九月頃被告に礼子を養子としてくれるよう申し入れたところ、被告はこれを承諾したが、その際養子とするよりはむしろ妻として入籍するのが本来の性質のものかも知れないとの趣旨を述べたので、原告清治は、はじめて被告と礼子との関係に疑惑を懐き、礼子を問いただした結果礼子は被告との醜関係を告白するに至つたこと、

(七)  そこで原告清治はその善後策に窮し、この際、礼子を被告の養子として被告に責任をとつて貰うほかないと考え、縁組締結方を強硬に迫り、同年十一月頃礼子を被告方に伴い行き「本人は勘当同様の子供である、こんな親不孝者は子供とは思わぬ、本人をつれてきたから身柄を頼む」といつて礼子を放置して帰つたので、被告は礼子を手許において学校に通わせるかたわら炊事の手伝等させるとともに、その頃千葉家庭裁判所一宮支部に養子縁組許可の申立をしたが、自己の親族等から反対され、みずからも縁組を躊躇する気持となり、許可の審判前にその申立を取り下げてしまい、原告清治からは入籍してくれなければ裁判に訴えると申し入れて紛争を重ねたが、結局昭和三十一年二月頃原告清治が礼子を自宅に連れ戻つたこと、およびその間に被告と礼子とは数回に亘り肉体関係を結んだこと、

をそれぞれ認めることができ、原告礼子(第一回、第二回)および被告本人の各供述中前記認定に反する部分はいずれも前掲各証拠と比照してたやすく措信できず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

三  右の事実によれば、原告礼子は被告と初めて肉体関係を結んだ昭和二十九年七月当時中学校二年生で満十四年二月の若年であり(原告礼子本人の供述によれば、礼子は当時情事の意味を解してはいたが、異性と接触した経験はなく、その後昭和三十年二月頃初潮を見たものであることが認められる。)、その関係は礼子が満十五年十月に達した昭和三十一年二月に及んだものであつて、原告礼子がその初回に被告の要求を強いて拒まず(被告が雨戸を閉め布団を敷く間に逃走する余裕はあつたものと考えられる。)その後もむしろみずから求めてその関係を継続したものであるとしても(また、これについては原告清治の監督不行届の点が多分にあるけれども)、被告は未成年者である礼子の知慮浅薄なるに乗じ金品を与え又は養子にすると申し向けてその信頼を得た上貞操を侵害したものであるから、その行為が原告礼子に対する不法行為となることは明らかである。しかして原告礼子が未成年かつ未婚の女性として精神上多大の苦痛を受けたことは明らかであるから、被告はこれを慰藉する責任がある。

四  よつて原告礼子の慰藉料の額について考えるに、成立に争いのない甲第二、第三号証、第五号証に原告礼子(第二回)、原告清治および被告各本人尋問の結果ならびに本件口頭弁論の全趣旨を総合すると、原告等方の家庭状況および被告の経歴ならびに家庭状況は前段冒頭説示のとおりであり、原告礼子の父である原告清治は終戦まで十年間陸軍軍属(判任官)の地位にあり、終戦後は肩書住所において農業に従事し(畑五畝一歩を所有)、昭和三十一年度において町民税三、九〇九円を納付するものであること、原告礼子は昭和三十一年三月居町中学校を卒業し、現在東京都において女中をしているものであること、被告は多年教職にあつて後退職した恩給受給者であり、所有名義の不動産なく、昭和三十一年度において町民税一、二三〇円を納付するものであり、被告の父進一は田六反三畝一三歩、畑八反一畝一一歩、山林一町三反三畝一四歩、宅地四八三坪、家屋六一坪八〇を所有し、昭和三十一年度において町民税一、六三〇円、固定資産税八、二六〇円を納付するものであることをそれぞれ認めることができるから、前記の事実関係のもとにおける慰藉料の額は金三萬円を相当と認める。

五  次に原告清治の慰藉料請求について考察するに、原告清治が原告礼子の単独親権者としてその長女礼子の貞操侵害につき精神上の苦痛を受けたことは容易に肯認されるところであるが、直接の被害者でないから精神的損害の賠償を請求し得るかどうかについては一応問題がある。しかしながら妻が強姦された場合に直接の被害者でないその夫から慰藉料の請求ができることはつとに判例学説の肯認するところであつて、本件の場合も本質的にはこれと別異とすべきではないと考える。民法第七一一条の反対解釈として生命侵害の場合以外には近親者は慰藉料の請求ができないとする見解もあるけれども、夫婦親子等の身分権にもとづく精神的利益の侵害については民法七〇九条、七一〇条によつて賠償請求権が認められるのであり、ただ民法第七一一条によつて精神上の損害に対する賠償請求が最近親に制限されるものと解するのを相当とする。従つて原告清治の慰藉料請求は理由があり、その慰藉料額は前段認定の事実関係のもとにおいて金一萬円を相当と認める。

六  よつて被告は原告礼子に対し金三萬円、原告清治に対し金一萬円およびそれぞれ右金員に対する本件訴状送達の日の翌日である昭和三十一年十月五日から支払ずみまで民法所定の年五分の遅延損害金を支払う義務があるものというべく、原告等の本訴請求は右の限度において正当であるからこれを認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用につき民事訴訟法第八九条第九二条、仮執行の宣言につき同法第一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 田中恒朗)

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